偽物だらけの「沖縄民謡」

沖縄の芸能、特に琉歌に興味を持ったひとは多いでしょう。そこで「琉歌」、「沖縄民謡」などをキーワードにネットを検索しYoutubeにたどり着くと沢山出てきますが、そのほとんど全てが発音からしてデタラメです。まともなものは20世紀までの先人の歌い手や、マルフクレコードに残っている音源のみです。そもそも本来の琉歌は沖縄語(うちなーぐち)で歌われるものですが、現在の歌手は沖縄語が満足に話せません。それはそのはずで、このブログで何度も指摘してるように日常語としてまったく話されていない、話せるひともいない言葉の歌を歌うのは無理に決まってます。このブログでは少しでも沖縄語の発音に近い「沖縄文字」を使っていますが、それでも言葉のアクセント、イントネーションなど伝えるべくもありません。

古い音源が手に入らないのであれば、嘉手苅林昌、亀谷朝仁、玉城安定、瀬良垣苗子などをキーワードにYoutubeで検索して、聞いてみることをお勧めします。これらの歌い手に比べ、琉歌歌手を自称しているひとたちの何ともお粗末な「死んでる」ウチナーグチ琉歌のひどさがよくわかるでしょう。Youtubeで誤った発音で得々として歌っているのを聞くと絶望的な気持ちになります。中にはまともな発音ができる歌手もいますが、まったく生きた抑揚がなく「お経読み」状態になっています。英語のポップスでも、英語が話せない歌手がカタカナ読みそのままに歌っている例がありますが、これとまさしく同様です。

沖縄語は島言葉しまく婢ばとして、各島(=村、集落)ごとに違いがあり、離島間はむろんのこと、隣村でさえ違いが大きく、互いに理解できないほどでした。その島言葉を日常話していなければ、その土地の歌を歌えるわけがありません。それでも現在の沖縄県で「島言葉復活」の各種活動があるのが不思議です。どこの「島」の言葉を話せるようにするのでしょうか。仮に那覇言葉を標準として普及、復活するのであれば、他の島言葉が否定されるので、沖縄語をを徹底的に否定し標準語普及を進めた「方言撲滅運動」とやっていることは同じでしょう。

日常語ではなくなった言葉での沖縄各地の民謡は、まったくの聞き伝えでしか残らないでしょう。琉歌の師匠と称するひともいることはいますが、このひとたちの発音は実にあやふやです。実際、間違った発音を弟子に教え、師匠本人が公開発表の舞台上でも間違った発音、歌詞解釈で堂々と歌っている例が多々あります。このブログのタイトルは「沖縄語を考える」ですが、「考える」より偽物だらけの批判に終わりそうです。

「沖縄語」は話せなくてよい

沖縄語(沖縄口うちなーぐち島言葉しまく婢ば)について考えてきましたが、現状から再考してみましょう。

沖縄県人でも沖縄語を話せるひとはほとんどいません。沖縄県の職場、学校、家庭内でも一般的に話している言葉はウチナーヤマトグチと呼ばれる共通語(標準語)に沖縄語の語彙を混合したもので、本来の沖縄語ではありません。沖縄語、沖縄口を標榜しているネットのサイトでもウチナーヤマトグチを沖縄語として紹介しているものがほとんどです。出版されている沖縄語テキストは首里方言か那覇方言ですが、あなたがそれで沖縄語を学習して沖縄県人に話しかけてもまず通じません。

沖縄語は島言葉とも呼ばれるように、琉球王国時代の分離統治政策により文字通り島ごと、村ごとに異なり、地域相互にまったく通じないほどの違いがあります。沖縄語を保存しようと「島言葉普及運動」があるようですが、数百もある島言葉をカバーすることはできるはずもありません。それに、70代以上の世代でも正しく話せるひとは希少です。「私は話せる」と称する人たちも自分の生まれ育った地域の言葉がかろうじて話せるに過ぎず、「これが正しい」という論拠は特になく、「こう話していた」という幼少期の記憶に頼っているだけです。以上により、沖縄県を旅行で訪れたり、あるいは定住するとしても共通語で十分です。語彙を憶えて行くうちに、ウチナーヤマトグチはすぐに話せるようになります。しかし、組踊や琉歌に興味があるというのであれば、沖縄語を学習する意味はあるでしょう。組踊に使われているのは、新作を別として伝統的なものであれば鑑賞・理解には首里方言の知識が必要です。琉歌は首里、那覇方言でほとんど間に合いますが、歌われている地域の方言も知る必要があります。

三線さんしんで琉歌を歌いたいと思っているひとへのアドバイスです。三線は楽譜として工工四くんくんしーがありますが、歌う場合の発音が問題です。沖縄語には正書法がないので、歌詞を正しく発音するには師匠からの口伝になります。ところが、この「師匠」たるものが問題で、その琉歌が唄われる地方の言葉に精通してないことがあります。また、前にも書きましたが「梅」=「望み」の「望」(「ん」のグロッタル音)ができない師匠も多くいます。聞いていると「ぅん」とか変に籠らせた「ん」を発声したりしています。師匠の教えは教えとして、正確な発音は古い先人のレコード、たとえばマルフクレコードに収録されているものを参照されるようお勧めします

沖縄文字と発音

沖縄文字と発音についての問い合わせがありました。

「婢」「廙」「廒」などの扱いや「沖縄文字」との互換についてはどこかでご紹介がないか?

ということです。問い合わせの答えになるかどうか自信がありませんが、分かる範囲でお答えしようと思います。

本サイトで使っている沖縄文字と発音は「沖縄語と文字表記」にありますが、それでは実際の音声としてはどうかがわかりません。それぞれの文字の表す音を聞いているより「沖縄口朗読用読本昔物語」で紹介した沖縄口朗読用読本「昔物語」(國吉眞正 琉球新報社)で、本文と付録のCDを聞き比べてみることです。筆者自身、今では貴重となったまともな沖縄口うちなーぐちを話す人なので、ぜひやさしい語り口も併せて鑑賞してみてください。

沖縄語の断片的な会話や文法を学んでみても、話せるひとも場もないので無意味なことは何度も繰り返し言い続けてきました。上記の本で沖縄語の語り口、流れ、響きを味わい、それを島唄に活かして歌ってみてはいかがでしょうか。

問い合わせた方がこれでは答えになっていないと思われたら遠慮なくコメントを利用してご連絡願います。

沖縄語はほぼ消滅

沖縄語が消滅危機言語と言われていますが、沖縄の日常を観察すると、学校、職場のみならず家庭でも沖縄語が使われることがなくなりました。現在使われているのはウチナーヤマトグチと言ういわゆる標準語に沖縄語の語彙や言い回しを入れた言葉です。このウチナーヤマトグチを沖縄語と思い込んで「私は沖縄語が話せる」と公言したり、ネットにアップするひとがいますが、ウチナーヤマトグチと沖縄語とは文法からしてもまったくの別物です。話者が多かった首里方言や那覇方言に限らず、どこの島(村)の方言であれ、純粋な方言を話せる人は70歳以上でも、今や皆無の存在です。「いや、自分はちゃんと話せる」という老人でも、幼少期に憶えた沖縄語を不確か、あやふやに話せるに過ぎないにもかかわらず、頑強に自分の沖縄語は本物だと主張している例がほとんどです。また、沖縄語の研究者でも、いざ沖縄語について沖縄語で議論しようと呼びかけられたら、いろいろ理由を付けて「逃げた」例もありました。英語が話せない英語の先生みたいな笑い話です。

話せるひとも場もない、カタカナ表記で意味が取れない、発音が不確かなまま、こんな状況で沖縄語の普及活動というのは何を目的にしているのでしょうか。小中学生の沖縄語コンテストがあるようですが、誤った発音で、ただ暗記の成果を発表しているだけです。沖縄語の次世代への継承は現世代で広く使われていることが前提です。それがない状況では継承などありえません。沖縄語はウチナーヤマトグチに駆逐され、残るのは琉歌、組踊の伝統芸能の中だけです。沖縄語の文法、会話などより伝統芸能の師範、演者は残された音源により、正しい発音と言葉の意味をしっかり身に着けて伝えて行ってほしいものです。

カタカナ表記は使えない

琉歌をやるひとなら誰でも歌える「かじゃ廙ふーぶし」を例にとってみます。分かち書きカタカナ表記にしても歌の内容=曲想がまったく表現できないのが分かるでしょう。

<カタカナ表記>
キユヌ フクラシャヤ ナウニジャナ タティル
ツィブディ ウゥル ハナヌ ツィユ チャタグトゥ

短いものでも分かりにくいのに、長い歌詞となったらどうしようもありません。本ブログで推奨する沖縄文字を使用して表記すると

<沖縄文字表記>
ぬふくらしゃや な歹にじゃなた廒る
滋ぶ廙歹るはなぬ 滋ゆたぐ婢

のようになります。いかがでしょうか。沖縄語の意味も発音もちゃんと取れます。参考までにこのブログにある「金細工節」を見れば、これをカタカナ表記で読まされるのは苦痛です。仮名文字を変形させた字体は必ずしも美しくないかも知れませんが、今のところこれより優れた表記法はないでしょう。例の琉歌でカタカナ表記の「ウゥ」は「u」の非破裂音を表す約束ですが、初見だと「うぅ」と唸りそうです。実際に「うぅ」と発音しているとんでもない歌い手がいました。

沖縄語をカタカナ表記する人たちが「言葉は基本的には音(音声)だから」というのは否定しませんが、音声絶対主義でカタカナ表記に固執するのは誤りです。共通の祖語から派生した沖縄語なのですから、共通語話者にとって理解、発音しやすい方法を取るべきです。

「初級 沖縄語」について

今年の1月に出版された「初級 沖縄語」(花薗悟著、国吉朝政協力、西岡敏、仲原穣監修 研究社 2420円)(琉球新報社の書評)です。
<想定読者>
本書全体は外国人への初級日本語教育テキストの体裁で、沖縄語の日常会話ができるようになっています。しかし、この本の沖縄語が話せるようになったとしても、それを使用する場がありません。地域、学校、職場で沖縄語は使われていないのです。つまり、誰も話さない言葉を学習することになります。沖縄語の保存・継承を目的とするのであっても、生活、文化に根ざしていないのでは意味ありません。著者は「首里方言をベース」にしたとのことですが、その妥当性については明らかではありません。沖縄本島内でも各地の方言(島言葉しまく婢ば)の差異が大きいので、この本の沖縄語が通じない地域が多数あるはずです。特に琉球王国時代に人頭税を始め過酷な徴税に苦しめられた宮古、石垣、与那国には独特の方言があり、王国の御殿言葉でもあった首里方言には強烈な反感があります。
<確認不足>
ある書評では掲載文に明らかな誤りがあることが指摘されています。一例として、第9課で共通語の「元気なはずです」を「ガンジューナ ハジ ヤイビーン」としているのは、「ガンジュー ヤイビル ハジ」が正しいと指摘されています。著者は大学の研究者なのですから、母語話者複数名から十分な確認を取るべきで、本として出版する以上、初歩的な誤りがないようにしたいものです。なお、その書評では母語話者に確認しながら本書で学習すべきと注意があります。これでは身近に首里語話者がいないと、この本では沖縄語の正しい学習ができないことになります。
<表記>
沖縄語が全てカタカナ表記になっているので、非常に読みづらいです。「漢字を用いると漢字に頼ってウチナーグチの音を憶えなくなってしまう危険性がある」としていますが、どのような実証がなされているのでしょうか。ちゃんと実証比較をせずに「危険性がある」と断定するのは、大学の研究者としていかがなものでしょうか。同じ日本語を祖語としている共通語(いわゆる標準語)の読者にとっては、漢字仮名混じり文で書かれた方が読みやすくて当然です。ウチナーグチの音を憶えるかどうかとは別問題です。参考までに「んかしむぬがたい」(國吉眞正 琉球新報社)に目を通されることをお勧めします。また、ウチナーグチ特有のグロッタル音(声門破裂音)について「この音の習得が容易ではない」という理由から、まったく重きを置いていません。しかし、私が以前出席していた沖縄語の教室では、初学者であってもすぐにできるようになっています。なお、その教室にはこの本の著者も自身の職業、参加目的を明らかにせず数回参加していましたが、一言も発することなくじっと黙って座っていたのが印象的でした。
<結論>
以上、これから沖縄語を勉強しようとするひとの多くは沖縄民謡のためと思われますので、本書のような語学テキストではなく、たとえば「うちなーぐちさびら」(船津好明 琉球新報社)や「沖縄語の入門」(西岡敏、仲原穣 白水社)を読まれることをお勧めしておきます。

沖縄口朗読用読本「昔物語」

琉球新報社からうちなーぐち朗読用読本「んかしむぬがたい(國吉眞正)が先月出版されました。全50話中前半の25話の著者による朗読音声CD付です。見開き2ページで物語本文と語句の説明というレイアウトです。本文は沖縄文字で記述され、漢字には全て沖縄文字のルビが振られています。語句の説明は沖縄語の初学者でも分かりやすい親切なものです。巻末には全50話の共通語(いわゆる標準語)訳があります。

今までに出版されてきた沖縄語書籍は、まず発音表記がまちまち、あるいは誤りだらけで、沖縄語辞書にもない語句の説明もなく、実際にどのように発音されるのか、まったく不明のものばかりでした。かろうじて一冊だけ、「沖縄語の入門」(白水社)がCD付きで、かつ語句説明もしっかりしたものとしてありました。とは言え、「沖縄語の入門」の方は、まとまったストーリーのあるものではなく、沖縄語の紹介としての役割が与えられています。

「昔物語」ではストーリーの記述、登場人物の言葉遣いが、丁寧語、尊敬語、謙譲語、日常語などに書き分けわれているので、シチュエーションによりどのようになるのかが、とてもよく分かります。断片的な沖縄語ではなく、言語の持つ生活実態や文化・時代背景が活き活きとして、沖縄語の持つ豊かな音韻と語句を学習する上で、今のところこれ以上の本はないと言ってもいいでしょう。

かなりの高齢者を除き、今では大多数の沖縄県人は沖縄語が話せないし、理解できません。インターネットにある沖縄語のほとんどはデタラメです。三線の師範と言われる人たちや、伝統芸能の組踊演者も、発音があやふやだったり、歌詞の解釈が誤っていたりしています。言語は文化の根幹ですが、沖縄語はまさに絶滅危機言語になっています。これから沖縄語の保存・継承は容易ではないでしょうが、次世代の沖縄県人への指針として本書が役立つことを願っています。

「廃藩ぬさむれー」は沖縄語の未来?

CD:風狂歌人~ザ・ベスト・オブ嘉手苅林昌~に収録されている嘉手刈林昌(1920-1999)の「廃藩ぬさむれー」です。嘉手刈が8歳の時に母と一緒に作ったそうですから、琉球処分による沖縄県設置から、ほぼ50年後ということになります。たんめー(士族言葉で祖父、老翁、平民言葉では、うすめー)と指すので、元士族(さむれー)身分のお年寄りなのでしょう。おそらく20、30歳代のころに琉球王国に仕えた士族で、処分直後には士族仲間といつの日か王政復古に立ち上がろうと意気軒昂であったものの、歳を取るにつれてその志は衰え、身なりも木製のフージョ―(煙草入れ)と粗末な笠と草履、腰も曲がって、ついに髪も切ってしまいました。そして、沖縄語も捨てて、何かと言えば共通語を使うようになってます。

沖縄語が使われることがなくなった今この唄を聞くと、まさに沖縄語への挽歌に聞こえてしまうのは私だけでしょうか。どれほど沖縄語の復活を声を枯らして叫んでみても、もはや時を逆転することは不可能でしょう。余談ですが、沖縄語を知らないころに東京銀座にある沖縄物産店の「わしたショップ」を「鷲田さんのショップ」と思い込んでいました。「わした」とは沖縄語で「我ら」のことなんですね。沖縄語には「我達わったー」もありますが、「した」は文語や強調に用います。

「平組」は中国清の辮髪、「カンプー」は首里王朝の男子髪型ですが、この場合は本土の丁髷(ちょんまげ)、「カタカシラ」は頭髪を頭の上に丸めた沖縄成人男子の髪型のことです。

1.歹が廒なちかさや 廃藩はいばんぬさむれー
こーぐまが廒 うすんかがん
(※繰り返し)
とー懲らぐん 大和やま婢カンプー
した沖縄うちなーや カタカシラ

2.みがぐりさや おーがさかた廒ー
ちーフージョーくしに アダニサバ

3.しばし国頭くんじゃんぬ うくしぬ
婢むあがる 時節じしちたな

4.あんちゅららさたる たんめーカタカシラ
大和やま婢ーになたれ 断髪だんぱちけーな廒

5.大和やま婢になたれ 大和やま婢ぐちたんめー
うっちぇーひっちぇー ぬーにん惘ーにん あんしてくださいねー

理解不能?な組踊

沖縄の伝統文化の粋である歌舞劇「組踊」が上演される機会がありますが、そこで配布されるプログラムに内容理解のための台詞が掲載されていることが多くあります。ところが、それが実際に舞台で歌われたり、唱えられているものと違っているので、観客にはまったく理解できないものになっています。一例として「執心鐘入」の出だしの一部を紹介します。引用させていただいたのは

組踊
観客のための現代仮名遣いで易しく読める
執心鐘入
編者 國吉眞正 音源調査・聞取り 遠藤友和
発行時期 2017年9月
発行 沖縄言語教育研究所

です。この資料は正確な記述で、今後長く参照される価値があるものです。

伝統的表記例<参考>
若松道行歌 金武ぶし
るてだや西にし
ぬのだけになても、
しゅみやだいりやてど
ひちよりきゆる。
若松詞
わぬや中城なかぐすく
わかまつどやゆる。
みやだいりごとあてど
しゅにのぼる。
(以下略)

現代仮名遣い(舞台での歌・唱えと一致)
わかま滋みちゆきうた ぶし
る廒だや西にし
ぬぬだき廒ん、
しゅめでいや廒嬨
一人懲ちゅいちゅる。
わかま滋
んやなかぐ流く
わかま滋嬨やゆる。
めでいぐ婢あ廒嬨
しゅぬぶる。
(以下略)

せりふの意味など
歌 金武節
日は西に傾いて、布の長さほどに地平線に迫り、暮れているが、首里に公用があって一人で行くのである。
若松
私は、まさに中城若松である。ご奉公のことがあって、首里に上る。
(以下略)

発音表記が正確で、詞章と実際の唱えとの対比や、沖縄語の意味がよく分かります。

ところが、プログラムによく記載されているのは上記の「伝統的表記」のみが掲載されるのがほとんどで、舞台で演じられる台詞との乖離があるので、観客はまったく理解できなくなります。さらに、「現代仮名遣い」で沖縄文字によりここで正確に表記されたものと、実際に演者が未熟ゆえ異なっている場合も多々あります。台詞や歌の意味を記載しているプログラムもありますが、この「せりふの意味など」のように正しく伝えず、解説者の能力不足から記述に誤りが散見される始末です。これでは無形文化遺産が泣きます。 おそらく演者は師匠から教わった通りにやっているのでしょうが、その師匠からして首里語ができず、正しい発音ができていないのでしょう。首里語話者がほぼ絶滅した現状では音声アーカイブによってしか発音が学べません。残された音声資料を手掛かりに、発音の研鑽を師匠、演者とも真剣に取り組むべきでしょう。解説者も固有表現、慣用表現に精通してなければなりません。「どうせ観客には分かるまい」と、いい加減に組踊を続けていてはお先真っ暗です。うちなーぐち、特に首里の言葉の持つ美しい響きあっての組踊です。

風姿花伝

NHKEテレの「古典芸能への招待」に歌人の馬場あき子先生が出演されていました。私は和歌をやっているわけではありませんが、先生とお呼びするのは、私が中学生の時に国語担当の教師として教えられていたからです。先生はまだ子供の私たちに、世阿弥の風姿花伝にある「秘すれば花なり」「花」について熱心に説明されていました。また、百人一首を暗記するよう教えられました。出演されている先生を見て、風姿花伝を読み返してみました。世阿弥は「歌道は、風月延年の飾り」として、能の修行に加えるただ一つのものとしています。和歌の韻律と風流の中に「花」を認めたのです。

そこから沖縄伝統舞踊劇である組踊について考えると、演者は琉歌をどれほど修行しているのでしょうか。その基礎となる沖縄語が話せない若い演者はどうなのでしょうか。8886の独自のリズムの琉歌と沖縄語の基礎がない演者の組踊は、単なる先達の舞の物まねになってしまいます。後継者がこの状態なら、無形文化遺産だ人間国宝だといっても、将来それこそ絶滅します。組踊五番の玉城朝薫は能の名手で、能をいわば本歌取りした組踊の作者です。それを演ずるものは、琉歌と沖縄語(特に首里言葉)に通じていなければなりません。加えて、能を上手に舞えることも要求されます。これは大変な修練、修行を要することですが、若手の演者にその覚悟が求められます。