亡びゆく言語を話す最後の人々

「亡びゆく言語を話す最後の人々」K.デイビィッド・ハリソン 川島満重子訳2013年(原書房)を読みました。うちなーぐちの若い研究者のEさんから教えてもらった本です。Eさんは尺八の師範で、東北出身ながら首里言葉や唄三線をマスターしています。さて、この本ですが、世界に現存する約7千言語の半数以上が絶滅の危機にあること、そして少数民族しか話すことができなくなった言語が絶滅することが人類の知的資産に大きな損失であることを現地調査を通して訴えています。

本書には記述はありませんが、うちなーぐち(沖縄語)について考えてみました。長年にわたって学校教育での徹底的なうちなーぐち撲滅が行われ、家庭内でも共通語(いわゆる標準語)の使用がすすめられました。その結果、70歳以下の沖縄県人のほとんどはうちなーぐちが話せなくなったのです。旧弊なうちなーぐちを廃して、共通語(いわゆる標準語)で話すことが沖縄県の進歩・発展に不可欠と判断してのことだったのです。うちなーぐちと共通語との、いわばバイリンガルの道を取らなかったことが、今日のうちなーぐちの消滅危機を招いています。

うちなーぐちが消滅しても、共通語で沖縄県人に何の不利益がもたらされるのでしょうか。沖縄県人が県外に働きに出ても、県外からひとが来ても同じ言葉が通じるからよしとする意見が多数です。それは認めますが、うちなーぐちが消滅してしまえば、その言葉でしか表現できない伝統芸能も、常に共通語を仲立ちにしなければ理解できなくなります。うちなーぐち独自の言い回しや表現の面白さなどなくなります。また、口承で伝えられていた民族の知恵、ウィット、ユーモアに溢れる話もなくなります。以前に紹介した琉歌です。

与那ゆなたか懲らやあしは廒嬨ぬぶ二人たいなりばくるまとーばる

の中にある「くるまとーばる」は牛馬でサトウキビを圧搾するための機械が回せる平地のことがすぐに頭に浮かんでこなければ、この琉歌を正しく鑑賞できません。また、いとしい女性をと呼ぶことを他の琉歌の中でどう語られているのかを知れば、この琉歌が心にしみじみと感じられるでしょう。

日本人全員が英語しか分からなくなったら、日本文化がどうなるか想像してみてください。おそらく後10年もすれば、うちなーぐちを母語とする最後の話者が消えるでしょう。そうなる前にうちなーぐちの保存が望まれます。沖縄県庁が主導して「しまくとぅばの日」を制定して保存のための試行が続いていますが、数百にも達する「しま=村」「く婢ば=言葉」を個別に保存・継承するのは困難です。私が提案するのは、まず県民が共通うちなーぐちとして首里言葉が話せ、その上で個々の「しまく婢ば」が話せるようにしたらどうかということです。それには学校での首里言葉教育が必要ですが、すぐに「学習負担が」という声が出そうです。しかし、文化や伝統、沖縄県人としてのアイデンティティーを失うことは(そうなりつつありますが)、何よりも大きな損失です。それに、2、3か国語が話せるスイスやベルギーで「学習負担が」などという声はありません。

揄ーや、沖縄うちなーちゅぬ望じとー廒、沖縄口うちなーぐちからんばー
君は沖縄の人のくせに、沖縄語も分からないのか

と私のようなものに言われる現状を何とかしたいものです。